私が韓国と日本の歴史を研究しようと思ったきっかけ
せっかく大学院に入ったのに、このままだと、オフシーズンもプロ野球ばかりを見て過ごしてしまいそうなので、少しでも有益なことをしようと思う。
私が「朝鮮半島と日本の交流を研究したい」と思ったきっかけなど書いてみる。
それは、とにかく「(日韓両国の関係)何でこんなに拗れちゃったかねえ?」と思ったことがきっかけだった。
10年前、私は韓国の某アイドルが好きだった。(今はもう、情報も追わないし、遠征もしない。地元に来てくれたらコンサートに行く。の熱量。)
そのグループが私の韓国へのきっかけで、彼らがいなかったら、今の私はいなかったと思う。
そんなグループのうちの一人に私の「推し」もいた。
その「推し」くんが、日本で自身初のソロコンサートを行った。しかも全国ツアー!2か月近く日本を中心に活動して、すごい盛り上がりだった。ヲタクはとても楽しかった。
そして、推しくんもとても楽しそうだった。最高に幸せそうだった。
でも、ツアーが終わって、韓国へ戻った推しくんは、その後全く、ソロツアーについて言及しなかった。(日本向けの)雑誌のインタビューで、ソロコンサートの感想を答えることはあっても、Twitterやインスタグラムで、日本のソロツアーについて言及することは、全くなかった。
だから、もう忘れたんだと思ってた。ソロツアー、日本での出来事。楽しかったけど、幸せそうだったけど、韓国に戻ったら、もう忘れたんだと思ってた。
でも、忘れていなかったことを、翌年の2度目のソロコンサートで知った。
「去年のあの幸せな瞬間、皆さんの歓声を、毎日思い出していました。」
2度目のソロコンサートの初日、彼は言った。
その言葉を聞いて、「忘れてなかったんだ!」と驚いたのと同時に、一緒なんだなあ、と思った。
Z世代にはもう、全く日韓関係に対する「モヤっとした感情」は無いよう見受けられるが、30代以上になると、やはりまだ「韓国」というと、何か違和感を持つ人間も多いよう感じる。(20代は過渡期かな、と。←私調べ)
わざわざ歳は言わないが、もちろん私も、「モヤっとした感情」を持っている世代だ。
敢えてこの言い方をすると、「加害者」である日本では「モヤっとした感情」程度だが、朝鮮出兵や日韓併合等、何度も攻めて来られた「被害者」である韓国にとっては、「モヤっとした感情」で済まされるはずもなく。(元寇で高句麗が日本に攻めてきた件は、一旦置いておきます。アレはモンゴルが悪いと思っている。←)
誤解を恐れず言うと、私はこの状況をずっと「それはそれ、これはこれ」と呼んでいた。
「国家間ではモヤっとすることがあるかもしれんが、私は韓国人の「推し」くんが好きなんじゃー!!!」
と。
つまり、「推し」くんも同じ状況ではないか、と思ったわけです。
「国家間では、色々思うところもある。許せないところもある(これは勝手な想像)。でも、自分のことを応援してくれる日本のファンには好感を持っている」
と。それはそれ、これはこれ、と。
だからこそ、私は、その原因を知りたくなったのです。
「日本と韓国、何でこんなに拗れた?」と。
人間同士で考えたら、お互いとても好きになれるのに、国家間になると、何千前年にもわたり、割と長い間常に互いを蔑視してきた関係。
なんだこれ。近すぎるからの悲劇でしょうか。
そんなことを考えながら、私がたまたま歴史好きだったこともあり、独学で韓国史を勉強しているうちに、気づけばこの道に進んでいました。
そして、研究者の卵になって半年。
「どうして私がこの研究をはじめたか」
ここの軸を持っていないと、ブレてしまうということを知りました。
研究(勉強)を始めると、関心深く、魅力的なお話が多すぎるからね。
興味のままに進んでしまうと、とんでもないところに行ってしまいそう笑。
まあ、それはそれで面白いのでしょうが。
ということで。
「日本と韓国の交流」と言いつつ、その心は、「何でこんなに拗れた?」を知りたいから、でこれから進めていこうと思います。
伝書鳩ライフ
いや、ライフってほど伝書鳩満喫してないですけど笑。
某教授にゼミの演習中に「〇〇先生の授業取ってる人いる?」と言われた。
何人か取ってるというのを知ると、某教授が「じゃあ、〇〇先生のゼミと合同でゼミコンをしよう!」と言われた。
そしててっきり、先生同士で連絡を取ってくれるのかと思ってたら、生徒(というか私)が、伝書鳩のように、お互いの伝言を伝え、二人のスケジュールを調整し、日程の設定やお知らせをしている、というお話笑。
会社で伝書鳩をしたことはあるけれど、まさか大学院でも伝書鳩するなんて笑。
ということで、大学院生活始まってます。楽しい。とても楽しい。2日に一度は、「良い選択だったわあ」と自画自賛してます笑。
2年か3年か
社会人が大学院に進学するに当たり、2年で行くか、3年で行くか、選択肢があるかと思います。働きながら、3年間かけて通える「長期履修学生制度」を選ぶ方も、少なくないよう思います。
私も(少し)悩んで、結果的に「長期履修学生制度」を利用して、3年間で大学院に通うことにしました。
正直、2年で行く選択肢もありました。お金的には、2年間大学院に通えるくらいは目処は付けていました。(その代わり、老後のことは何も考えられなくなりましたが^^;←)
仕事も変え、脱社畜して、時間的に余裕あるところで働くつもりでいました。
それで何故3年にしたのかというと、ひとつは、少しでも長く学生として勉強する時間を持ちたかったからです。
今回の院進学は、「生涯学習」の側面が強く、正直に言って、院を卒業したあとどうするか、全く何も決めてない状況なので、そんな、せっかくの大学院生活、2年で卒業しちゃうなんてもったいない!と笑。
あとは、運勢的な側面で。(本気で言ってます笑)
「2024年と2025年は運勢が停滞している、新しいことは始めない方が良い」と占い先生に言われまして。
3年で大学院を卒業すれば、2026年3月の卒業。
新しいことを始めるのにぴったり!と。
それならもう、ますます3年で行くしかないじゃん、と笑。
以上、本気で「2年か3年か」で悩んでいる方には何の参考にもなりませんが、そんなふうに私は3年かけて大学院に行くことにしました、というお話でした。
院試当日
さて、院試当日の事について書き記しておこうと思います。
…と言いながら、わずか4ヶ月前のことなのに、ほぼ何も覚えていない笑。
それはともかく、前日は、大学近くのホテルに泊まりました。ホテルは、とても快適で、そこでサラッと復習をしたりしてました。
そして次の日、ホテルから大学に行くまで、久しぶり緊張ました。その頃私は、特に仕事上では辞めることが決まっていたので、もう何をしても緊張しない状態になってました。
だから、大学へ向かう道すがら、緊張している自分に、「まだ私も緊張することがあるんだ!」と感動していたものの、どうやらその緊張は、単に「知らないところに行く行けるかどうか」と言う緊張だったようで、いざ会場につくと、また緊張はなくなりました笑。
試験自体は、全体的にとても楽しかったです。(そんな感想)
文献読解は、なかなかのボリュームではあったけれど、全部書けたし、ひとつだけ分からない単語あったけど、まあ満点とはいかずとも、そこそこ取れてるでしょう。という感じ。
ただ、いかんせん、問題文が長いし、日本語書いてるつもりがいつの間にかハングル書いてたり、漢字が分からなかったり、辞書持ち込みOKなのに、そもそも紙辞書ほとんど引いたことないから、それで時間かかってギリギリ、あんまり見直せませんでした。
文章の中に〈「○○」「○○」のようなドラマにより韓流ブームが始まり〉的な文章があって、一つは多分「冬のソナタ」なのだけど、もう一つのタイトルが分からず。
直訳「復讐行ったり来たり」的なタイトルだったのでそのまま書いた笑。絶対に不正解恥ずかしい笑。
そして専門分野!私の専攻分野スバリを出題していただき、問題見た瞬間、先生好き♡とか思いました笑。
しかし、そこまでしていただいたのに、イマイチ解答にキレが無かった(内容薄かった)のは、ひとえに私の実力不足としか‥。
更には面接も、相変わらず「緊張ゼロ」で、人生でこの先、緊張することは無いような気がしてました笑。そして最終的に「もう(これまで)いっぱい働いたんで、これからは好きなことしたいです。研究したいです」という言葉に、教授陣は和んで下さった。ような気がします笑
あとは、ヲタクの早口で、色んなこと話しまくった笑。オノレの薄い知識を最大限話しまくった!楽しかった✨✨✨
というか、特に面接が楽しかったです。雰囲気で乗り切ろうとしてしまったため、緊張はしなかったものの、言いたいことがまとめられなかった悔いは残るものの、終わってすぐの感想が「え?!何これ!楽しい!」でした笑。
ということで、院試前に本気で勉強をしていたので、当日は全体的に、とても楽しかったことしか覚えていないポンコツスミマセン笑。
脱社畜
新しい職場で働き始めて10日。
ここ数日、ちょっとパニくってました。
新しい仕事は、覚えなければならないことは多く大変ですが、身体は全くキツくありません。
今まで、8時間走り回っていた、立ち仕事だったことを考えると、嘘のよう。
定時になると、スパッと帰れます。
今まで、出勤したら最後、永遠に帰れなかったことを考えると、嘘のよう。
好きなこと(学業)をするために、仕事だけの人生を辞めたけど、これでいいのだろうか。
やっぱり、例えばホテルで働くような、ワクワク感がある仕事をしたい。
(しかし、退職に関しては1ミリも後悔してない笑。)
えー、でも、ホテルで働いたら、勉強できない。。。どうしよう。。。
と、悩んだ挙句、京都でお世話になっていた占い先生に電話で相談することに。
この先生には色々、占い以外にもお話を聞いてもらっていたので、「占いじゃなくて、完全に人生相談なんですけど‥」笑←笑いながらも、本当に縋る感じでした笑。
私の京都でのしんどさを知ってる先生は、私の頭の中の整理が出来るようなヒントやアドバイスをたくさん下さりました。
というか、相談して、腹括りました。
「腹を括って、テキトーに働く」
テキトーに、というと語弊がありますが、仕事に過度な熱量を注がない、という意味で。
身体に社畜が染み込んでるので、油断するとすぐ、神経すり減らす勢いで働こうとしてしまう。笑。
でもこれからの私の軸は学業。
「4月からの生活に備え、それくらい余力があってもよいのでは?」というお言葉でした。
そのほかにも、
「ホテルで働くのはお勧めしない。経験者なので、きっと、給料以上の仕事を任される。未経験の仕事なら、単なる一労働力として働ける」
「混乱していたのは、今までの働き方とのギャップ、カルチャーショックでは?」
「今まで、しんどい仕事を当たり前のように働いてきたので、これからは楽に働いて良い」
という言葉をいただき、頭の中が整理できました。
私の人生の軸は、これまでは仕事でしたが、これからは学業。
仕事は、もちろん、一労働力としての務めはきちんと果たすつもりですが、仕事が楽でも罪悪感は持たず笑、やっていこうと思います。
何より今はまだ、学業が始まってないから、こんなことを考えるわけで。
「余力があるなら、何か単発的な、時期が来たら辞めることのできるバイトすれば?」
と言われて、そ!れ!だ!と笑。
正直、週休2日にも慣れてない笑。
もちろん、余裕がある今こそ、家で鬼勉するのもいいけれど、こんな気持ち(社畜が抜け切れてない笑)の今は、その時期ではない気がする。
なので、年明けたらもう一つ、これは完全に自分が楽しく働けるバイトを探してみようかなあ、なんて思ってます。
院試の勉強方法
私の基本スペックとして、2019年10月頃から、毎日アホみたいに韓国語の勉強をしていた。
仕事のある日は1〜4時間程度、休みの日は6〜12時間程度。
ヲタクの趣味の対象が、アイドルから韓国語に移ってしまった形で、とにかく毎日アホみたいに勉強していた。
大学院入試科目は、「長文読解」と「専門分野」の2つだったが、長文読解は韓国語で受験ならすでにレベルに達していたので(TOPIK4級程度)、先生に「これまで通りの勉強をしていれば、特別な勉強は必要ないと思う」と言われた私は、本気で1か月前まで、専門的な勉強をしなかった。
いや、その関連の本は読んでいたし、フィールドワークも行っていたし、韓国語の勉強も毎日していた。休みの日は10時間のクレイジーレベルで続けていた。
そして、院試までいよいよ1か月を切ったくらいで(正確には、祇園祭が終わったので笑)、やっと院試(専門分野)の勉強を始めた。それが8月の初め。
でも、院試の勉強と言っても、特に文系に関しては、どのような勉強をすればいいのか、何の情報も無かった。ネットで「有料」ならあったぽいけど、お金を払うつもりは無かった(スミマセン)
なので、どうやれば良いのかわからないので、自分なりに考えて、以下のように行った。
•流れをまとめる
私の研究したいテーマ(朝鮮通信使)は、教科書的に流れや語句等をまとめてある本等はないようだった。それぞれ、先生達が、ご自身の得意なジャンル(旅程、書物、外交関係etc)について書籍を発表していらっしゃるが、もちろんそれは、教材的なものではない。
なので、「朝鮮通信使の教科書を作ろう!」をテーマにした。自分が「朝鮮通信使を他人に教える時の教材」を意識して、数冊の書籍を参考にノート整理を行った。
ちなみに、このノート整理がなかなか大変で、半月以上かかったので、「ナゼもっと早く始めなかった自分‥ナゼ1か月前で大丈夫だと思った自分‥」と、オノレを責め続けた‥笑。
(ノート整理については、ここで流れを正確におさえたかったので、頭にきちんと入るように、パソコンではなく、敢えて手書きにした。)
•想定問題を作る
自分で想定問題を作って、それに対する模範回答も作った。
大学院に行き過去問も見たので、それも参考に想定問題は作った。
ちなみに、自分が作った想定問題のうち、一問、ドンピシャ予想が当たったヽ(´▽`)/
まあ、設問も、私が提出した研究計画書に沿った問題を出題していただいていて、それはひとえに先生の優しさなのであるが、そんな先生の優しさに、イマイチキレのない(薄い内容)の解答を書いてしまったことは、ひとえに私の勉強不足、実力不足としか言いようがない‥。
緊張なのかなんなのか、名前と年号が全部飛んで、フワッとした解答だった‥(;ω;)詰めが甘すぎるわたし‥(;ω;)
(いや、思い出した。勉強後半になると、朝鮮通信使そのものより、雨森芳洲(対馬藩儒者)と申維翰 (シンユハン/朝鮮通信使)の関係性に萌えどころを見つけたり、新井白石の人間性(二面性)とか、そっちに夢中になっていて、最初に覚えたワードや年代はキレイに忘れてた笑)
まあ、思うにわたしは、2019年からずっと「勉強」をしてたので、それが役に立ったのかな、とは思う。
院試のために、確かに勉強はしたけれど、そんな、追い詰められるまでの大変さはなかった。
勉強する癖が付いてなかったら、こんなふうな軽い感じで大学院に合格できたとは思えない。
3年間、ただただ趣味で鬼勉していたことが、今回のことに繋がったと思うし、この道を選んだことにも繋がった、と思います。
朝鮮人街道(近江八幡)
朝鮮人街道は、近江国に存在した近世の脇街道である彦根道、京道および八幡道の異名である。中山道との比較で下街道・浜街道、あるいは朝鮮人道、唐人街道などともいう。(Wikipediaより)
ということで、紅葉にギリギリ間に合った12月初め、全長約41.2キロのうち、近江八幡市内の朝鮮人街道を実際に歩いてみました。
まず、近江八幡市街地の朝鮮人街道は、このような感じ(観光案内所の方が書いて下さった。)
そして、基本コースはこんな感じ。(こちらも近江八幡観光ボランティアガイド協会のホームページから、モデルコースいただきました。)
まずは、朝鮮通信使の休息の場になったという、本願寺八幡別院へ。
営業開始?してるはずなのに、門が閉まっていたので、とりあえず横から入ってみました。
すると「御用の方は寺務所へ」との張り紙を見て、「そっち系のお寺ね」とひとり笑う私。
そっち系とは。や、私の身体は、京都の観光系寺院にすっかり慣らされてしまいました。営業時間に行けば寺の門は空いてる(入場料取られる)、本堂も開いていてお参りができる(お賽銭入れる)、というのが常識になっていました。
ただ、京都にも稀に、入場料取らない代わりに公開しておらず、「御用の方は寺務所へ」というお寺もあります。京都では稀なこのタイプのお寺が、全国的には割と普通、という事実を忘れてました。すっかり京都に染まってしまったぜ。と笑。
「御用の方は寺務所へ」ということは、寺務所に声をかければ、御朱印はもらえるのかもしれません。
ただ今回、私の「御用」は、御朱印ではなく、朝鮮通信使の書き残した「扁額」(寺社仏閣にある看板みたいなの)が見たい。
でも、いきなり言っても戸惑われるだろうし、そもそも、非公開かもしれない。
ということで、本当に見る気なら、きちんと手順を踏まなければ、と思い、諦めました。
でも、お寺の様子を外からだけでも見れて良かったです。
どーん!と撮っても、まあ基本は、ただの道笑。
でも、この道を、朝鮮通信使行列が通っていたのか‥と思うと、非常に感慨深い。胸熱ロード。
ちなみに、元々この道は、家康が関ケ原の戦いの戦いの凱旋に通った道出そうなので(むしろ、そっちのが有名かと)、家康クラスタにも胸熱ロードだと思います。
京街道(朝鮮人街道)から見えた本願寺八幡別院。なるほど、ここを右折して休憩所であるお寺に向かったのね、と。位置関係と距離感が分かってよかった。(ていうか、逆光!)
そしてそのまま、京街道(朝鮮人街道)を進みます。遂に本物見れた!石碑に大喜び笑。
そして石碑のすぐそばにある旧伴家住宅には、江戸時代の豪商の住居兼蚊帳工場。江戸時代には珍しいという三階建の建物、圧巻でした。二階建のフリして、こっそり三階建にした、という説明、金持ちだからできる技よね‥とか思いました笑。
朝鮮通信使に関していえば、この辺りでの通信使の行程は、大津で食事、守山で宿泊、翌日は、八幡で食事、彦根で宿泊という行程だったそうなので(『近江八幡観光物産協会』ホームページより)、ここ近江八幡での饗応料理の再現がしてありました。
そして何より!とても可愛い朝鮮通信使人形の行列風景の展示がありました!
饗応料理の展示は知ってましたが、人形達がいるとは全く知らず、SNS等でも見たことなかったので、テンション上がって大変でした笑
(基本写真は撮れるけど、外観以外、SNS等へのアップNGみたい、残念)
そしてその後も、周辺の資料館等見たあと、そのままひたすら道を歩きます。
京都風に言えば(言うな笑)、京街道仲居町通りから見た、京街道(朝鮮人街道)。(しかし今や、この方法で、道を言うのが一番わかりやすい笑)
そういえば、京街道沿いの古民具屋さんに、小さな土人形が並べてありました。
最近の私は、京都でも、この手のお店を見つけると、入って朝鮮通信使の人形を探してみています。でも、まあ、無い笑。
なので、お店の方が声をかけて下さったので、勇気を出して「朝鮮通信使の人形はありますか?」と聞いてみたら、やっぱりありませんでした。
でも、無かった事実より、「(店内を探した後)たまに入ってくることあるんだけどねえ。今は無いねえ」というお店の方の回答の方が衝撃的でした。すごい!時々入ってくるんかい!さすが朝鮮人街道沿い!とか心の中でツッコんでました笑。
そして、仲居町通りを南に下がります。仲居町(すわいまち)と読むそうです。
仲居町通りを東に曲がり、そしてまた、新たに朝鮮人街道の石碑を見つけて、上がるテンション笑
↓朝鮮人街道はこっちの縦の道
そして、更に南に曲がり、住宅地の中を歩いて、2号線に到達しました。
2号線に出て、車がビュンビュン走ってるのを見たところで、脳内も江戸時代から現実に戻り、この日の行程終了。
全部でどれくらい歩いたんだろう。感覚的に、2〜3キロかな。道幅、距離感、目に見える山々、少しだけでも歩けてよかった。やっぱり、その場で無いと分からない感覚があるな、、と思いました。
本で読んでいたことが目の前に広がるこの感じ、バーチャルがリアルになったわ‥とか思いながら歩くと、また別の感慨。
【今回の旅の気付き】
•観光協会は使うべし
•朝鮮通信使関連の寺社仏閣限定で御朱印を集めるのはアリかもしれない。
•歩いた距離を測れるものが欲しい(万歩計?)